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荆州一日游

发布时间:2013-11-03 08:47:51  

皆様、こんにちは、ようこそ荊州へおいでくださいました。私は長江旅行社の***というもので、今回の地元ガイトです。本日は日本からのお客様をお迎えすることができまして、大変嬉しく思っております。この一日の旅、皆様がお世話をさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。何かご要望や不行き届きの点などがございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。それから、人数ん確認をさせていただきますので、お席にお掛けください。はい、全員がお揃いですから、今日の日程を簡単にご紹介いたします。今日は一日、市内観光を楽しんでいただきます。午前は荊州古城と博物館をご案内させていただきますが、まず古城は参ります。それは三国時代の名将関羽によって築かれたと言われているそうです。終ったら次は博物館へ参ります。そこで、春秋戦国時代の楚の時代の文物財とか1800年ぐらい前の生ミイラを見学していただきます。そこで大体2時間半ぐらいかかります。観光が終わったらその近くのレストランで昼ご飯をとっていただきます。午後2時から、荊州万寿宝塔と紀南古城をご案内いたします。ほぼ2時間ぐらいかかります。その後は皆様の自由なショッピングの時間です。大体午後の5時ごろ皆様のお泊まりの金九龍ホテルに帰ります。金九龍ホテルは荊州で有名な四つ星のホテルなので、サービスも雰囲気もよろしゅうございます。皆様、ご安心ください。

はい、今から出発いたしまして荊州古城へご案内いたします。ここから古城まで大体30分ぐらいかかります。時間があるので荊州について簡単にご紹介させていただきます。荊州は通常「江陵城」と呼ばれ、古代中国九州の1つです。 南側には沙市(しゃし)が近く、そばには長江が滔々と流れています。青々としていた湖は城壁を取り囲み、地形によってくねくねと迂回(うかい)しています。荊州は自然資源に恵まれて歴史が長く、文化も輝いているので、国家歴史文化名城になりました。春秋戦国時代、楚国は四百年の間に荊州に都を定めてずっと統治していました。他に、荊州は中国の竜船文化の発端地なので、一年一度の荊州国際竜船節も荊州ならではの文化現象になりました。

荊州に商業を発展する機会が多いです。昔から、ここは店舗がずらっと軒並みしていて、商人が人だかりしていました。漢代から、荊州は全国の商業都会として経済が盛んでいます。今、荊州は素晴らしい人文地理条件によって、経済発展に取り組み、新たな荊州を作り上げるためにずっと努力しています。

皆様、話をしているうちに車が目的地の荊州古城に着きました。それでは、貴重品、カメラなどをお持ちになって車を降りてください。

皆様もご存じかと思いますが、中国には長城に登らざれば好漢にあらず。つまり、中国に来てかならず長城の登るという意味です。同じ道理のように、荊州へ来てぜひ荊州古城を登ります。そうではないと帰るあと残念だと思うかもしれません。では、登りながら紹介します。

荊州古城はすでに2000年余りの歴史があり、秦漢に城の周囲を作り、五代十国の後で煉瓦(れんが)で城を建てました。宋、元、明には何度も壊れては修繕しました。現存の城は明の時代(1646)のお城を基にして再建されたものだそうです。城内東西3·5キロメートル、南北1〃2キロメートル、敷地面積が4〃5キロメートル、周囲が10〃5キロメートルで高さが9メートルです。ちゃんと保存されてきたので、「我が国の南方に完璧な物だ」と呼ばれています。荊州古城が三層で、外側には護城河があり、中間は煉瓦の城壁で、内側は土の城です。城門が地元の地理や風俗などに繋がっています。城壁に元々城門が六つあります。(大東門、小東門、大北門、小北門、南門)改革開放の後、経済発展のために新たな南門、北門と東門を建てたので、都市の交通状況を改善したとともに文物の保護にも役立っています。そして、軍事施設が整っている防御工事なので、荊州は昔から“兵士が必ず争う地”と呼ばれて今までも重要な役割を果たしています。

皆様、お疲れさまでした。荊州古城はここで終ります、これから博物館へ参ります。 荊州博物館は荊州中路の開元観の旧跡に位置します。唐代開元年間に開元観は建てられ、「山門」、「雷神殿」、「三清殿」、「祖師殿」の四つで構成されています。1958年荊州博物館を建てました。館の南には別の陳列館を建てました。その面積は4.8万帄方メートルです。その中の国家1級の文化財として世にも珍しい貴重な品は200数件あり、春秋戦国時代の楚の時代の文物の展示が多いです。中原とは明らかに異なる民族、文化がここに栄えていたことが実感できる展示です。ほかに、紀南城で発掘された前漢時代の男性のミイラも展示されています。 収蔵する文物は13万件を越えます。民族文化を広めるために館には楚文化の石器、陶器、青銅器、漆器、絹織物などのテーマによって、何度も欧米各国に文物を運送して展覧会を開いました。それは社会的に良い響きを齎しました。荊州博物館は、その豊富な展示品で国内外の観光客を引きつけ、毎年、観光客はほぼ60万人に達しています。まず、前漢時代の生ミイラを見学していただきます。こちらへどうぞ、この漢代墓は1975年に掘り出されて、500余りの文物が展示されています。その中に注目されているのは出土した2000年も前漢の男性の木乃伊です。彼の棺桶が内棺と外棺からなるので、当時に彼が地位のある人だというのも容易に分かっています。確かに彼は生前が大夫で各種の病気で約60歳に死んでしまいました。墓室が三つの部分に分けられて彼の生前の居室に模倣して作られたものです。棺が全部最高級の楠木(クスノキ)で作られて一塊でも千キログラムほど重いくらいです。皆さんの見る通りに、この木乃伊は体重が52〃5キログラムで身長が1678センチです。彼の側にその小さい箱に置いてあるのは脳髄で大きくて四角い箱に置いてあるのは内臓です。2000年も経ったにも関わらず、木乃伊がちゃんと保存されてきました。肌の弾性力もあり、四肢の関節も自由に動けます。棺を開けた時に、木乃伊が十数種の漢方薬で作られた真紅色の液体にどっぷり浸かっていました。それが腐らない原因が一体何だかという疑問があるだろう。研究結果に基づいて、主な原因が三つあります。一つは墓穴が地下十メートルにあり、一つは棺が麻布(あさぬの)と生漆(きうるし)に密封されて酸素を遮断しました。最後は漢方薬で作られた液体の殺菌防腐作用です。この木乃伊を発見した後、2000年前に、我が国の人民が医療と防腐などの方面で、相当高かった水準に到達したというのも了解しました

次は『古代漆器上等品展覧会』です。中国に漆器の製作と使用は7000年前の新石器時代から始めたものです。とりわけ、春秋戦国時代の楚国は漆器商業が繁盛していました。収集された楚国と秦朝と漢代との竹簡が全国に首位に立って、それに、この漆器の出土数量が全国で一番多いだけでなく、種類の複雑さ、手工芸の巧みさ、価値の高さなどが疑いなく中国の歴史上に画期的な意義があります。例えば、皆さんの見る通りに、この虎座鳥架鼓(こざちょうかこ)は楚国の重要な楽器種類としてちゃんと保存されてきました。頭を上げ、足を曲げて背を向ける二頭の虎を台座として、虎の背中に一羽ずつ鳳(おおとり)が歌っているように立って彼らの真ん中に一面の鼓が紐で締められて鳳の冠から垂れています。この漆器は本物そっくりで、楽器でも芸術品でも、その歴史文化価値も計り知れないものです。因みに、この意気軒昂(いきけんこう)の鳳と小柄で縮こまる虎との組み合わせからして、楚国人の落ち着いた生活に憧れる願望と強暴の事物にめげない精神というのも分かっています。

さらには、『楚漢絹織物展覧会』です。東周時代、楚国の刺繍技術が長らく発展していたので、織物の種類が段々増え、主に絹、紗、錦、羅などを生産していました。それに、特殊な織り込む方法を採用して労働時間も短縮しました。飾り模様が主に鳳、竜と花草などで鮮やかな色彩で独特なスタイルが表現できます。これらの念入りな図案が当時に最高

水準に達した絹織り技術を反映した御陰で、荊州の馬山一号墓は「古代中国のシルク宝庫」と呼ばれています。

はい、午前の見学はここで終ります。皆様、お疲れさまでした。お腹がすいたでしょう。今、皆様をレストランへご案内いたします。そこで、ちょっと休みください。1時半バスに集合、ホテルに帰ります。

午後

皆様、こんにちは、午後の観光は今、始めます。今回の目的地は荊州万寿宝塔と紀南古城でございます。

万寿宝塔は湖北省にもう一つの重要な古い建築として、1956年に全省の重点文物保護対象になりました。これは天下第一磯として長江の堤に聳え立つものです。そこから遠方の立派な風景がみえます。

宝塔は高さ40.76メートル、八面で七階で、宝塔の上に色々な素振りをしている仏像が88尊あります。そして、煉瓦の種類も複雑で、その上に色々な図案もあれば、仏教の経典もあり、宝塔の天辺に金剛経(こんごうきょう)が全部刻まれました。それで、その歴史文化価値が計り知れないかも知れません。この塔は他の塔と比べて最大の特色が塔の体が長江の堤より約7メートル低くしています。

西暦紀元1548年、皇帝の誕生日を祝うために建てられました。それに、洪水を抵抗し、人民の幸福を祈るという意味も含めます。

はい、次は紀南古城です。こちらへどうぞ。

紀南古城は秋戦国時代の遺跡です。紀山の南にあるため、こう名付けられた紀南城は、春秋晩期(前689年)の楚の文王から、前278年に秦将白起に攻められ頃襄王が東方に遷都するまで、楚の都「郢」として、その年代としては最大の都城として栄えた都です。東西約4.5Km、南北約3.5Km、城周辺が15.5Kmでした。四面の城壁には七つの城門が設けられて、さらに三つの水上城門があり、朱河や龍橋河など四つの水流が城の中を通って流れ、城の堀の役割を果たしている護城河と長江につながり、水運や用水、消防にとって便利にできています。

紀南城の中は、宮殿区、帄民区、手工業の工房区、商業区、大型の武器庫が置かれ、その配置は合理的である。史書によると、当時の市街はにぎやかで、人が押し合いしていたため、朝、街に出かけて夜に家に帰ってくると、衣服はぼろぼろになっていたと書いてあります。これはやや大げさだろうが、紀南城の繁栄ぶりがうかがえます。

はい、皆様、今日の見学はこれで終わります。これから、皆様自由なショッピングの時間です。1時間ほどごゆっくり楽しみください。

送別

いよいよお別れも近いということですので、一言お別れのご挨拶をさせていただきます。今回の旅はこうして無事に快適な旅行ができましたのは、皆様のご協力んおかげです。この次おいでになる時もぜひどもの旅行社をご利用ください。それまでにわたしももっと日本語を勉強しておきますから、またご案内させてください。はい、皆様、さようなら。

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